[霧の峠 =まがうとき外伝=」  峠の見晴らしの良い展望台に車を止める。  峠の坂を登る頃に出ていた朝霧は、展望台に近づくにつれ薄くなって、 上には晩秋の青空が広がっていた…  車内にある温度計は20度をさしていたが、車外の温度計は6度をさ していた。  ドアを開け車外に出た途端に、私の息は白くなった。  大きな伸びをして深呼吸をする。肺の奥深くまで冷たく新鮮な空気が 入ってくる。  峠の展望台にある自動販売機で暖かい珈琲を買う。さすがにこの冷え 込みだと、冷たい清涼飲料水を買う気にはなれない。  珈琲を懐に入れ、小走りに車に向かう。  「…!」  車にたどり着きドアに手を掛け、ふと前方のこれから行く峠の向こう 側を見た私の眼下には、まるでミルクを流し込んだかのように白い朝霧 が静かな湖面の様に広がっていた。  道は、そのミルクの中に吸い込まれるように続いていた…私は声にな らない感嘆の息を漏らした…  暫くうっとりその光景に見とれていたが、所詮生身の人間、寒さが次 第に身に凍みてきて、飛び込むように車に乗り込んだ。  車内は幾らか余熱が残っていたが、温度計は15度になっていた。  触媒コンバータが急激な冷え込みのため、カツーン,カツーンと音を たてているのが聞こえた。  懐からさっき買った珈琲を取り出し、まず手を暖め次いで内臓も暖め る。  珈琲を片手に、これから向かう場所へのルートを膝の上に広げた地図 で確認する。  道は一本道、このまま下って行けばよい。  身も暖まり、そろそろ出発しようかと思っていると、峠のバス停の所 に人影を認めた…  良く見ると、それは女性であった。  (何時の間に来たのだろう…?)  私は興味津々で彼女を見た。  しばらく見ていると、彼女はバス停の下に座り込んでいたが、やがて 自動販売機の方に移動を始めた。  女性の足取りが、なにかおかしい…どうやら、足を引きずっているよ うだ。  見るに見かねて、彼女の側に行く。  「どうかしましたか?」  彼女はちょっと驚いたように私の方を振り返った。  彼女は良くみるとまだ若く、年の頃は私より多少年上に見えた。  「はい…旧道を歩いて来たのですが、途中で足を挫きまして…仕方が 無いので、バスで行こうかと…」  彼女は目を伏せ、そしてうつ向いて私に言った。  行き先を尋ねると、これから行く峠の麓の場所付近までと言った。  「麓までなら乗せて行ってあげますよ」  なんの気なしに言った私の言葉に  「有り難う御座います。助かります」  彼女は伏せていた顔を上げ、私の顔をじっと見つめ、そして微笑みか けた。  見ると彼女の顔に光が差したようだった。  彼女を乗せて車を発進させる。  若い女性を乗せていると言うのに、私の愛車はスムーズに発進した。  (珍しい事もあるものだ…) と、私は内心驚いていた。  「この峠は始めてですか?」  彼女は微笑みながら、私に話しかけてきた。  「はい…あなたは?」  そんな彼女笑顔を横目でみて言った。  「わたしは何度か…」  彼女はちょっと、首を傾けて言葉を続けた。  「…そうですか、峠の向こう側の霧は濃いので注意した方がいいです よ」  彼女の忠告に注意していると、峠は再び霧に包まれだした。  「そうみたいですね」  そう言って私は次第に深まっていく霧に、注意深く愛車のフォグラン プのスイッチを入れた。  「地元の方ですか?」  私も彼女の微笑みにつられてニッコリしながら訪ねた。  「ええ…」  しかし、彼女はなぜか言葉を濁した。  「さっき、間道を歩いて来たと言ってましたが、この峠に間道がある のですか?」  私は、話題を変えると共に、疑問を解決すべく彼女に訪ねた。  「いいえ、旧道です。昔の街道が昔のまま残っているのです」  彼女は私の間違いを優しく訂正した。  「すみません、旧道でしたか。それで、どこから始まっているのです か?」  私は、少し照れながら頭を掻いた。  「ええ、峠を登ってくるとき峠の入り口付近に神社が在ったのをご存 知ですか?」  彼女は私の仕草に目を細めて言った。  「ええ、峠に登ってくる前に参拝してきました」  私は、また彼女を横目で見た。彼女は優しく微笑んでいた。  「あの神社のすぐ側から旧道が始まっていて、この展望台で一旦合流 してから、ほら、そこからまた旧道が麓まで続いているのです」  彼女の言うとおりに見てみると、なるほど”旧街道”と書かれた道し るべがあった。  それから、私と彼女は色々世間話をしていたが、時々、峠の所々で彼 女が注意を促すので、安心して運転する事ができた。  ただ、彼女がどこから来たのかとか、彼女がどこに行くのかと聞くと 彼女は言葉を濁した。  …そして、ようやく峠の麓に到着した。  峠の麓にある商店の店先の前で、彼女を降ろした。  「どうも、有り難う御座います。おかげで助かりました…貴方が今度 この峠を通るときは、きっと晴れると思いますよ」  と愛車の窓越しに言った彼女は、最後まで微笑みを絶やす事がなかっ た。  「それでは…失礼します」  と、言ってから彼女は頭を下げ、足早に歩きだした。それはとても足 を挫いているようには見えなかった。  そして、彼女は瞬く間に霧の中に消えて行った。いや、溶け込んだと 言った方が正解かも知れなかった。  「それから…そこにいる彼女にもよろしく…」 と、霧の中から声が聞こえた…  私は、ハッとして、  「…そこにいる彼女って…」  私は、思い当たる節があるので、車の中を見渡した…そんな私の耳元 に別の女性の笑い声が聞こえたような気がした。  …そんな事があってから数日後、車好きの友人の所に遊びに行って友 人とおしゃべりしながら車雑誌を読んでいた…  と、その中に、”峠の怪談”と書かれた頁に数日前にあった出来事と 似たような話しが書いて在った。  なんでも、現れるのは決まって女性で、その女性は峠の精霊であり、 彼女に親切にした人はそれ以降峠で事故に合わずにすみ、親切にしなか った人は峠で事故を起こすのだそうだ。  私は、青ざめて友人に数日前の出来事とこの雑誌の話しをしたが、  「ははは…そんなばかな…」 と、一笑に伏されてしまった。  …でも、私は信じたい。彼女は峠の精霊であって、私を助けてくれた のだ、そして我が愛車はそれを知っていて、すねる事がなかったのだと… 藤次郎正秀